○行事の料理
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やこめ おしゃかこごり
お正月関係行事 堰勘定
節分 雛祭り
赤飯△● お彼岸と食
桜の花見 端午の節供
七夕節供 お盆その1 7月15日は中元
お盆その2 お盆 なぎんでぇ
小豆のご飯 土用の丑の日(鰻の蒲焼き)
十五夜 冬至
かっちきご飯(炊き込みご飯) ■ ちらしずし △●
万燈蒸し □  十日市 △
歳暮・除夜 手作り豆腐 △■
黒大豆の煮豆 しるこ
朝市 晋山式(しんさんしき)
富山の薬屋さん

やこめ

 前の年に収穫した稲の中から選りすぐった種もみを残しておいて、これを新しい年の苗代に播くのであるが、稲作農家にとってこの苗代の種播きは、一年のうちで最も大切な行事とされているため、田の水口に収穫の神様を迎えて、豊かな穣りを祈る行事をする。
この行事のとき水口に供える供物を「やこめ」と呼んだ。語源は「焼米」であり、苗代に播いた種もみを少し残しておいて、もみ殻を取ってから煎ったものである。
 水口にち井皿土盛りをした祭壇にこれを供え、まわりにはカツの木・ヤマブキ・カヤ・ヤナギなどの枝のほか、正月七日の七草粥のとき使った粥かき棒や箸なども供えた。
 ところによっては、焼米は野鳥がこれを食べて苗代の種もみを荒らさないようにという意味を持っていると言うが、本来は米を焼いて穀霊の出現を促すとともに「やいかがし」と言って煎った匂いで悪霊や害虫を追い払う呪い術であり、カツの木やヤナギなどの木の枝は心霊を迎えるための依代(よりしろ)である。
 水口に供えたやこめを村の子供達に配ったのも、焼米の呪力で子供達が健康で育つようにと願うと同時に、稲の子(もみ)が健康で育つことを祈ったものである。
 こうした伝承がやこめのもつ本質であるが、山梨県の場合本来のやこめを作るところはきわめて少なく、現在やこめと称しているものは、うるち米またはもち米と大豆を原料とする食べものである。
 これも米の貴重な地域性であろうが、種もみにするもみは残るほどなかったから、前年収穫した米に大豆を混ぜて増量し、これを供えるようになったものであろう。

材料(4人分)
 ・もち米 200g  ・大 豆 80g  ・食塩 5g   

作り方
1) もち米は、洗って一晩水につける。
2) 大豆は、フライパンに入れて弱火で煎る。
3) 2)を塩水に1時間位浸ける。
4) 蒸気の上がった蒸し器で、1時間蒸す。
5) 茶碗に4)を盛りすすめる。

メモ
大豆は焦げやすいので火力に注意する。以前は鉄鍋の厚い「ほうろく」で煎っていた。
調理法が蒸す調理なので、塩分が足りないようなら補足する。
現在は、電気炊飯器で簡便に出来るが、その場合は、もち米に対し2割のうるち米を入れる。
大豆も煎ったら水に浸し十分に柔らかくなったら炊飯器に入れる。(大豆は、ふやけて皮がむけたら取り除く)
もち米を使わないでうるち米と大豆で炊飯することもある。

 

 参考資料:山梨県発行「ふるさと自慢シリーズ 甲斐路 ふるさとの味」

おしゃかこごり

「おしゃかこごり」は山梨県北部、南部地方に残されている行事食である。48日は「潅仏会」としてお釈迦様の誕生日。これらの地方では、1ヶ月おくれの58日に各家々で「おしゃかこごり」を仏壇にあげてからいただいた。お釈迦様の頭は、ごつごつしているので、それになぞらえて、三種類の餅をあられにしたものや大豆とあられが主材料の水飴や小麦粉で円形にごつごつしたこごりに仕上げたものである。地域や家々により材料や作り方が随分とことなっている。何れも甘くて、歯ごたえのある「おしゃかこごり」でここに紹介したのは、ごく一般的の「おしゃかこごり」でいずれも昭和30年頃まで続いたようである。今では、幻の味である。
 山梨県東部では、48日の「潅仏会」に釈迦像に「甘茶」をかけ、参詣者はお寺で用意した「甘茶」をいただいたこの行事も昭和40年頃まで続けられたようである。「甘茶」は、アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを煎じた飲料で黄褐色の甘味が強い飲料である。

南部のおしゃかこごり

材料
もち米1升 ・片栗粉適量 ・もち草200 ・食紅少々 ・水飴300g〜500g ・油少
・大豆300g

作り方
1) もち米は、一昼夜、浸漬する。
2) 蒸し器に布を敷き1)を一時間、強火で蒸す。
3) 洗った臼と杵を支度する。
4) 3)に蒸し上がった2)を入れよくつく。
5) 4)を三等分し1/3は、白餅として延し広げ、全体を薄く、最後に片栗粉をつける。
6)
5)の1/3はついた餅の最後に食紅を薄く溶き加え赤く延し広げ、最後に片栗粉をつける。
7)
5)の1/3はついた餅の最後に重曹で処理をしたもち草を加え餅につけ込み延し広げ、最後に片栗粉をつける。
8) 5)、6)、7)が約2時間経ったら総て約1cmの角切りし、日向で乾燥させる。大豆をいる。
9)
乾燥したら大きなフライパンか中華鍋に油を敷き8)を炒めて水飴でからめ、約直径3cmにまとめる。

北部のおしゃかこごり

材料
大豆300  ・砂糖100  ・小麦粉100  ・油少量

作り方
1) 大豆を焦がさないようにいる。
2) 1)に沸騰湯を入れ大豆をふやかし柔らかくし水気をきる。
3) フライパンに油をぬり2)を入れ砂糖と水で溶いた小麦粉を加え、約直径3cmの円形にまとめ焦がさないように火をとおす。

メモ
甘味は好みで調整する。
大豆を小麦粉でまとめる場合と蒸し上げた上新粉でつなぎ合わせる方法もある。
いった大豆に米あられと水飴で合わせるとおこしのようにもなる。

お正月関係行事

一月は年中行事の中で、最も重要な儀式的行事が開催される月である。昔から農耕生活が中心の山梨では、「農耕神」に一年間の国家平安、五穀豊穣、家内安全を祈願した。年中行事と食文化は密接に関連し脈々と現代に伝えている。主なものを紹介する。
お正月の料理は、暮れに用意された「お節」(おせち)を一家団らんでいただく。山梨県下では、一般的に元旦の朝食はとりわけ「御神酒」、「お節」、「湯盛りうどん」が食膳に登場した。「湯盛りうどん」は、沸騰させた湯の中に大きめの線切大根と生うどんを入れ煮たあつあつを別に作った熱い汁に加えて食す。親戚もきたりして、大勢になると賑やかにお正月を過ごした。女衆は三が日といえども、新年の年始の方や親戚の方のおもてなしなど寒い中、大忙しをしたそうである。正月料理の「お節」は日持ちさせるため濃く味付けし重箱に詰めたり、皿に盛りつけ我家自慢の料理をその都度、客に勧めていた。地域の産物を嗜好に合わせて調理し、そこにはおのずと郷土食が輝かしく出現したのである。

お正月飾りは、神棚にしめ縄をはり「おしんめい」(12枚)を陳列した「しめ縄飾り」が一般的である。お供えは、御神酒、半紙の上に鏡餅、干し柿、昆布、みかんなどで山海の産物を重箱に入れて、神への供物を供えた。峡北地方では、新巻鮭を神棚の右側に吊るし、災いが家に入ってこないように御呪いをしたようである。床の間に「お節」、「鏡餅」などを供える家もある。「おしんめい」は家の戸間口、納屋、お蔵さらには諸道具の鍬や鎌の類、現在は乗用車やトラクターなどに至るまで貼られる。日本のお正月行事は、地域によって格段の相違がみられ、地域性の特徴が顕著である。清新なお正月気分は、「餅」が主流を占め正月の儀礼食の代表として精神文化を豊かに示しているのであ る。 

お節

 古くは五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)の折に、用意したが時代は下り「お節」というようになった。江戸の城下町のお正月状況を示した書物『馬琴日記』(滝沢馬琴の日記で1827から1834年までの江戸の食を示している。)には厳格に催されていることが著れている。
本来の姿は、蓬莱(ほうらい)飾りにあり三方に白米、のしあわび、伊勢海老、かち栗、昆布、本俵、串柿、ウラジロ、ユズリハ、ダイダイなどの縁起物を供えた。まず、これらを年神に供えた後、供物を下げて、一同が神と共に食して祝うことを直会(なおらい)の儀と呼び「お節」となった。正式には、「四段重」に詰め一の重に数の子、黒豆、ごまめなどの祝い肴、二の重にはきんとん、伊達巻などの口取り、三の重には海の幸、山の幸など鉢肴(焼き物)、与の重には畑の物の煮物を収めたが色彩の美しい口取りを一の重に詰め、祝い肴が与の重に入れ替わる場合もある。
  一般的には、春夏秋冬の折々に収穫し保存した食材を煮しめなどに調理し食卓に色どりを添えた。「お節」は年始にあたり文化、経済、勤労、健康、平安など国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穣を祈願する縁起が込められている。例えば日の出蒲鉾や紅白なますは平安を祈願し、錦卵やきんとんは財宝を願うなど謂れと願いがこめられている。

正月の準備

お正月を迎えるために暮れの28日か30日に準備をする。29日はその日に餅をつくと「苦餅」といわれ、総てのお正月の準備をもさける。「すす払い」、「障子張り」、「餅つき」、「門松飾り」、「床の間飾り」神棚に「しめ縄飾り」など子供たちも含め家族総でで準備をした。子供は「書き初め」を書いて家の中に貼ったり、14日「小正月」の「お山飾り」の竹にも貼るのである。時代と共にそれらを手軽に購入して簡素に済ませる家庭が増えなんとも寂しい限りである。

28日はどこからともなく、臼に杵からの「ぺったん、ぺったん」と聞こえ、30日にはもっともっと大きな音が山々にこだました。正月用の餅は、鏡餅、餅、豆餅、草餅、黍餅、赤もろこしの餅などをつき、その日に小豆餡を入れた餅大福も作った。鏡餅は「おそんねぇ」と呼び歳徳神を始め神棚、仏壇、水神、恵比寿大黒天など各所に置かれたが、現代は多くの家が主な神様だけとなっている。
鏡餅は、神棚、家神様、仏壇、お水神さん、おいべっさんなどにお供えする。
餅大福は、すぐ固くなるので暮れからお正月にかけて、熱を加えて家族で食べる。

明治、大正、昭和40年頃までは、米が尊かったので、もち米の中にあわやきびで増量しぼそぼそとしていたそうである。餅類は沢山に搗いて親戚に配ったりもする。暮れの寒い中を一日かけて餅つきを済ませる。朝早くからくどで火を燃やし前日の浸漬したもち米などを蒸し、臼に入れ杵で音を立てながら手返しをする。広げられた餅は、夕方から角餅に切っていくのである。餅文化は、日本列島を東西に大きく分けると東方が角餅、西方が丸餅と二極分化できるという。

門松は「一夜松に通ずる」といわれ嫌われた。そこで、30日以前に松を探しに山へ行くのが通例で松、竹、梅、赤南天を添え、外側には新縄を巻いて「おしんめい」を飾り仕上げた。松を山に探しに行くことを身延町の山間地では「お正月迎え」と呼んでいた。松は身近で竹はすくすくと伸びふしめ々があり、梅は春一番に咲くめでたい木で、年神様はいつも山の常緑樹に宿っていて里人の働きを見守り、招きに応じ里を訪れると信じられていた。「門松飾り」はお正月の神依木(よりしろ)として、神酒をあげ清浄な場所で中心的な場でもある。「せめて正月ぐれえにゃ」と大奮発して正月用の着物、足袋、下駄などを新調し平素の生活が偲ばれる一面である。31日には、「年越し蕎麦」をきりざめ一杯に作ったのである。このように正月の儀式は特別なハレの日の食として迎え奉る年の神様用として、計画的に準備が行われている。

 おもっせのご飯

1231日の大晦日は家族揃って夕飯をいただいた。昭和30年頃までは、「その年の事は年の中で」、「年越しをしてはならぬ」という風習から「31日の12時頃まで借金取りが清算に追われ提灯をつけて行き交った」と懐かしい話しを長老がしてくれた。峡北や峡南地方では、昭和40年頃まではどこの家も「ご飯といえば」普通に「麦ご飯」をさしていたので31日の「おもっせのご飯」は麦の入らない白いご飯だったので、子供たちはこぞってお代わりをした。暮らしは貧しくも深い家族愛で結ばれていた時代の麗しい食風景が浮ぶ。峡南地方では、現代も「おもっせのご飯」は供されている。おかずは、地域や家により異なるが準備した「お節」や野菜の煮物、鰯やさんまなど魚の焼物、けんちん汁か味噌汁であった。12時近くになると神社にお参りに行ったり「年越し蕎麦」を摂ったようで蕎麦は細長く長寿を願って食すといわれている。

湯盛りうどん

1月1日、元旦の朝食には決まって「湯盛りうどん」が登場する。『甲州年中行事』(明治時代、若尾謹之助著)には「雑煮餅の代わりに郡部にては麺類吸物とて麺類を入れたるを祝ふ所もあり」とある。『風俗画報』(明治時代)には東山梨郡の正月行事として「元朝家長は早起きして若水をすすぎ恵方に向て歳徳神を拝し家族と屠蘇を酌み和気あいあい麺類を祝う」と示されている。このような習慣が生み出された背景に土地柄、稲が栽培されず雑穀類の粉での伝統があり米の餅ではなく、麺類がハレの日の食物として位置づけられている。よって山梨県下、年中行事の中で正月にうどんを食べる習慣が広く示され鰍沢十谷の「みみ」も正月三が日供していたようである。「湯盛りうどん」を元旦に供す風習は細くても長く生きたいという願望があったともいわれている。具が沢山の熱々の汁は身体全体が暖まるのであ る。

七草粥


「七草なずな七日の晩に唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に」と七日の朝に野菜を用いて「七草粥」を作った。わが国で粥が食べられたのは、古く稲作文化の始まった弥生時代に玄米を粥にしたようである。春の若菜を摘むのは『万葉集』(奈良時代末期の全20巻、最古の歌集。)の巻頭に示されている。七草の始まりは、王朝貴族の春の催しがやがて一般化し、お正月の「七草粥」の風習を生み出したといわれている。春の七草は「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノノザ、スズナ、スズシロ」である。木のまな板の上で七草を載せて包丁で、トントンと音を立てながら刻んでいたのが懐かしく思い出され、今日に伝承している。一年の、無病息災、家族が健康で幸せになるよう祈願して供している。また、お正月中の胃のもたれを「七草粥」でさっぱりとあつあつを美味しく摂ることで、明日への元気の源となっている。更に、米を朝粥で摂ることは消化上からも好ましく、身体の活力を計るのに効果的の食である。この頃は、緑黄色野菜が欠乏しているため活力を復活させ、人々はこぞって春の野に出て摘み菜を集めたようでもある。忙しい現代社会では、山野草を摘むことは、珍しくなり主婦が七草に因んで、七種類の野菜を工面しているのが現状である。この季節に雪でも降ったものなら山野草は、摘むことが出来ない一面もある。伝統を維持するための策のようで「大根、白菜、ほうれん草、人参、牛蒡、里芋、蓮根など」を代用しているのが見受けられ寂しい今の姿である。
「七草粥」を供す日までを「松の内」といい松飾りやしめ縄飾りを取り外し庭の木に結び、それらを114日の夕方の「どんどん焼き」に持参して焼く。

小正月の祭りと行事食

 その1 「お山飾り」

 「道祖神祭り」、「お山飾り」、「小正月の団子花」、「どんどん焼き」、「獅子舞」などが1月14日から16日までに催される。14日の夕方の「どんどん焼き」は、各集落単位で行われ正月関連行事の中で地域の人々が一同に集まり賑やかに開催される。峡南地方では、約1週間前、「道祖神」の場所に「お山飾り」を拵える。太い竹を5から6本用意し鉈を使って戸数分に割っていく。竹の芯を取り除き糊を使って色紙を次々と貼り、中央に縄を使い一つにまとめ、柳は四方に平均に枝が垂れるように建てる。上弦に富士山に似た三角形を作り、ここから「お山飾り」と呼んだようである。「お山飾り」の上部の上弦は集落により特徴が示され芸術的である。酷寒の澄みきった「お山飾り」は、青空に伝統行事の象徴として現れている。よって、地域の共同作業は人々の交流、団結意識、奉仕の精神が生まれるようでもある。また、村落協同体としての規制も強く示されている。特に、身延町栃代、長塩、宮之平、竹の島などの集落は現代も盛んに行ってい
る。「
20日の風を当ててはならぬ」といわれ19日以前に「お山飾り」を倒し輪にして各戸の家の屋根に供える。火難風難を避ける呪いである。
 上段左は、市川三郷町黒沢の「お小屋」でムラから離れた河川敷に作られる。上段中央は、甲州市上井尻
の「オコヤ」である。上段右は身延町門野での正月飾りはどんどん焼きで厄払いをする。

その2 「どんどん焼き」

「道祖神」は街道沿いの集落中央にある場合が多く見られる。「どんどん焼き」は14日の夕方に「道祖神」の場所か川で行い、集落ごと開催している。現代は14日近くの休みの夕方に行うところが多くなっている。

 「どんどん焼きの団子」は前日に樫の木の枝に「どんどん焼き」用として、上新粉を捏ね直径3cmの少々大き目の団子を丸く作り蒸してつける。樫の木には、団子を家族の人数分と「道祖神さん」用を合わせた数を作る。各家々の門松飾りやしめ縄飾り、子供は一年間したためた習字を中には、神棚や床の間に飾っただるまや破魔矢や更に昨年屋根の上に奉納したお山飾りを持参する人までいる。長老の合図で、それらにご神火をつけ道祖神のご神体である真ん丸の石を「どんどん焼き」の中央に投げ入れ火を当て直ぐに出し、いよいよ炎たけなわとなる。一声にみんなが持ってきた団子が焼かれるのである。書き初めが空高く舞い上がると「書道が上達する」といわれ「どんどん焼き」に威勢をつける。この焼き団子は、「風邪をひかない」、「虫歯にならない」といわれ子供は硬い団子をほうばったのである。灰は家の周囲に蒔き、魔除けとした。

 14日の峡南地方での夕飯は「かっちき飯」が供される。「かっちき飯」には、いわれがあり米を多く収穫するには肥料がない時代、かっちきである干し草が大事であった。今年も干し草が沢山水田に入るよう願いを込め干椎茸、人参、午蒡などの具たくさんの炊き込み御飯である「かっちき飯」を家族で揃って供し無病息災を祈る食行事といわれている。

その3 「団子花」

「団子花」は14日の「小正月」の約一週間前に作る。まず、山から樫の木を縁起物として取ってきて、大黒柱に縛りつける。樫の木には花のように上新粉の団子を刺し散りばめ食紅で少々色図けしたものは、華やかさをましている。団子の種類は、大判や小判、俵やざる、繭玉、里芋や人参や牛蒡など昔をしのぐ夢のある団子が多い。また、金柑や小みかんで色取りを添えたりもする。「16日の風を当てたら行けない」といわれ15日には、下げて野菜のたっぷり入ったすまし汁や味噌汁やしるこの中にも入れたりする。

 昔山梨の養蚕地帯では、繭玉になぞって「お蚕さんがたくさん生産出来るように」と願って「団子花」を飾ったともいわれる。

その4 「獅子舞」

 114日身延町長塩では、町指定無形民俗文化財「長塩の獅子舞」が開催される。ここでも14日近くの日曜日の夕方に行うようになった。凡そ200年以上も前、寛政年間から伝承され集落内の4ヶ所の道祖神で舞を奉納している。この一年間に結婚された家では、悪魔を祓いめでたく賑やかに舞う。昔から「獅子舞」といえば、男性が「雄獅子」、「おかめ」に扮し太古やお囃子に合わせ舞を行う。女衆は、今か今かと「獅子舞」が来るのを家で待つ。保存会の方々により今日に伝承している。当日、長塩の道祖神には御神酒、団子などの供物、提灯が一緒に奉納されていた。多勢の見物人のお客さんにも御神酒をふるまった折、なんとも微笑ましい光景であった。貴重な伝統芸能をずっと伝えていってほしいと願わずにはいられない。長塩では、「小正月」として門松が新たに飾られていたのである。

その5 「小豆粥」

115日は、平成12年までは「成人の日」で休日であった。身延町の山間地の集落では15日には、決まって「小豆粥」であった。平安時代の『延喜式』(927年)に行事食として七草粥と小豆粥が出現している。小豆は正月の餅の白色に対比される儀式の色として位置づけられ、よって日本の分化は白い色と赤い色を併存させるようになったともいわれている。粥は、小豆のアントシアン色素の色彩で「邪気を払う」と昔から信じられ今は、寂しいことに「小豆粥」を作る家は少なくなっている。この時期は、大寒の最中で大変寒く、風邪の予防も含め節目々の行事食で、体力増強を図る目的などがあり、ここにも昔からの生活の智恵が現れている。代々守り継がれた食行事が薄れていく中で大切な行事を伝えていってほしいと願っている。

 お正月関連の行事とその食は、数多くあるが「拝賀式」、「若水を汲む」、「お田うね節句」、「お棚下げ」、「薮入り」(やぶいり)、「鍬入れ」、「冠落し」などはほとんど聞かなくなってしまった。このように正月は、農耕儀式の集中する月で地域との関わりによって成り立っている行事が多くみられる。

堰勘定

 わが国に稲作が始まった時点から、河川の流れを堰上げて川を横断させた堤状の構造物を作り水田まで水を取り入れる堰を設けた。
 さて、身延町宮之平「堰勘定」は、例年12月下旬に行われている。身延町の中でも堰は、栃代川の清沢口から宮之平まで、山林の傾斜地約1.5kmと距離が長い。
 堰の共同作業は、決まって5月3日を堰日と当て水路の整備を始めとし、この日をもって同じ手順での水稲耕作が始まるのである。稲作の最も栄えた昭和30年頃は水田耕作の延べ面積10500u、平成15年は4884uと5616uもの随分の減田となっている。
 「堰勘定」には決まって3集落の持ち回りの代表者と長老が出席し中の「堰大将」が本年の経過報告である耕作面積、休耕田、出人足などを述べ、次年度の耕作、堰の修理箇所などの話し合いを決めたりする。「堰大将」は、水源や水路の管理運営をも行うのである。
 5年前からコンピューター処理された報告書になり、今までの明治、大正、昭和、平成時代と総て手書きの「堰勘定帳」がとても懐かしく思える。暮れの何かと忙しい時期「堰勘定」は、昔から「年越しをしてはならぬ」という習慣があり「算盤片手に半日かけて堰勘定をおこなったもんだ」と長老が話してくれた。灌漑用水の確保は、稲作の生命線であり耕作する者にとって極めて、重要な関心事でもある。昔の娯楽がない時代は、「堰勘定」がくるのを男衆は酒が出るし楽しみに待っていたようだ。水田耕作に無くてはならない堰行事は、共同作業での人々の交流、堰仲間の団結などが見られ密接な関係を持っていることが伺えられた。
 決算の後は、御待ちかねの「直会」である。酒と肴が必ず出現し当番の家では朝から季節の旬の料理を用意し「地産地消」の原点の膳であったようである。里芋と高野豆腐の煮物、大根と蒟蒻とさつま揚げの煮物、沢庵、甘酒など、最後に手打ち蕎麦を振る舞ったそうである。一年の締め括りとして、最後まで「酒」が盛大に注げられ「堰勘定」は延々と続いた。近年は、酒と寿司、刺し身、季節の煮物、甘酒が出現し、帰りには寿司と酒、菓子を家族への「お包み」として、持ち帰って頂くのである。
 酒の祝宴は、村人の集会、祝儀、不祝儀などハレの食に必ず登場し、精神文化の基盤ともなっているようである。(写真右)

節分



  「節分」というと山梨県では身延山の久遠寺と増穂町の昌福寺がとても有名である。節分は立春の前日にあたり、その夜から新たな出発がある。一昨年にたまっていたケガレはその時点で消滅されなければならないといわれている。豆まきで年男が祓う前厄、本厄、後厄の主に3回を行う。豆を撒くのは年男が「司祭者」に位置づけられているからであり厄年の人をそれにあて、無病息災と家内安全を願っている。厄年は死とか苦労などの語呂合わせで人生の折り目にあたり心身のケガレがたまりやすい年代の人で真実味がある。
 家の戸口には、「ヤイカガシ」と呼ばれるひいらぎの枝に鰯の頭を刺して飾る。すると鬼の目を指すに通じるし一説には、鰯を食べに来た鬼の目にひいらぎが刺さりあわてて山に逃げ帰ったといわれる。邪気の侵入を防ぎ悪鬼を払う。春を迎える厄払いの行事として、神社仏閣では、年男が福豆を盛大にまき悪鬼を追い払う儀式を催う。
 昭和30年頃までは焙烙(ほうろく)で大豆をいるのが当たり前であった。豆いりは3回〜7回焙烙より桶に移し替え最後は丁寧にいった。これには意味があり物事は農事にしても家事にしても「慎重にしなければいけない」という教えがあり、一説には鬼の目をつぶす豆だから「念には念を入れ」ているものだと言われてきた。豆いりに使う杓子は、洗わずに飯盛りに使用するのが通例で、節分が日常生活とは違った炊事作法であったことを語っている。
 豆撒きは、いった大豆を仏壇や神棚に供え「福は内、鬼は外、鬼の目をぶっつぶせ」と大声で叫びながら景気よく豆をまき歩く。子供達の多かった昔は、3日の夜は、それはそれは賑やかだった。豆撒きが済むと「年取り」で、「自分の年の数だけいり大豆を食べればよい年が迎えられる」といわれ、かわるがわる子供らは升の中に手を突っ込んで摂っていた。夕膳は家族揃って、白いご飯とけんちん汁、鰯の頭は「ヤイカガシ」に使うので身の方を焼いて食卓に並べ供されている。

雛祭り

 3月3日は華やかに雛人形を飾って、女の子の健やかな成長と幸福を祈る行事で、「上巳(じょうし)の節句」、「桃の節句」と呼んでいる。「雛人形」の歴史は、古く平安初期、今から千年以上も前のこと『源氏物語』の中に「ひいなの遊び」と呼んで宮中の人形遊びが著されている。
 「うれしいひなまつり」 佐藤 八郎 作詞 河村 光陽 作曲
   あかりをつけましょ ぼんぼりに
   お花をあげましょ 桃の花
   五人ばやしの 笛だいこ
   きょうは楽しい 雛祭り
 太陽暦の3月3日、まだ桃の花も咲き出さないため、月遅れの4月3日を「雛祭り」とした。
 ここ山梨では、女児の初子のいる家では、母親の生家から「内裏雛」、親類からは「雛人形」が贈られる。大正時代までは「雛人形」といっても特別の家でない限り豪華な「雛人形」はなかった。現在のように一般的に普及したのは、昭和35年頃からである。お祝いの品の返礼は「菱餅」を配る習わしがある。
 赤は食紅、緑はもち草を入れて臼でついて伸ばして菱形に切り三段に重ね供える。お座敷に雛壇を作り、雛を飾り赤・白・緑の三色の菱餅と桃の花を飾る。菱餅の重ね方には、決まりがある。一番下の緑は、依代(よりしろ)を置く邪気を払う場所であるので、もち草の強い臭いにより呪術的な植物を意味する。その上に神様の霊を迎えるため穢(けが)れのない白い餅の依代を載せ、更に上には邪気を払う赤餅(桃の花)を載せ三段重ねとする。合わせて雛飾りには、雛あられや白酒を供える。
 この写真左側は、塩山市の甘草屋敷での雛祭りの展示である。高野家は、江戸時代に薬用植物の「甘草」の栽培をし幕府に納めた家で古くから「甘草屋敷」と呼ばれた。

赤飯

誕生日、七五三、入学式、卒業式、結婚式などの通過儀礼や節句と田植え他の年中行事、祭り、上棟式やさらには選挙の当選時など祝いの日には「赤飯」を炊いて盛大に祝宴を開く。別名「おこわ」、「こわ飯」とも呼んでいる。「赤飯」はハレの食の筆頭であろう。

以前はささげを茹で、その茹で汁を用い赤色を出していた。現在は食紅を用いたり、ささげも小豆と変化しているようである。赤飯の下には「難を転ずる」ということわざから南天の葉を敷く。

材料
もち米 3カップ  ・ささげ 80g  ・食紅 少々  ・黒胡麻 小さじ1 食塩 小さじ1/2  ・南天の葉  適宜

作り方
1) もち米はといで一昼夜水に浸す。(食紅を水で溶いて少々加える)
2) ささげは洗って湯を用い2〜3時間、浸漬し小鍋にささげと10倍の湯を入れて、ふたをし中火で約30分煮る。
3) 蒸し器に敷のうを敷き、1)、2)を混ぜて入れ強火で約50分蒸す(30分加熱したら一度ふり水、さし水をする。)
4) 蒸し上がったら器に南天の葉を敷き「赤飯」を盛り胡麻塩をふる。

メモ
ささげの原産地はアフリカやインドなどとされ、中国を経て日本に伝わった。
ささげを茹でる時は、豆をすくって空気にふれると美しいアントシアン色素が鮮やかに出る。
「赤飯」は、江戸時代後期頃から庶民の行事や儀礼食として、日本各地に浸透していたようである。

お彼岸と食

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものである。この頃はしのぎやすい温暖な天候になる。「彼岸」は春分や秋分を中心に前後3日間をさし一般的には、お墓参りをする期間でお坊さんにお経をあげてもらったりして先祖の供養をする。
江戸後期に現代の形式となり「彼岸」は仏教に由来し日本固有のインドの古語サンスクリットにならい「此岸(しがん)より彼岸に到る」という。先祖供養は祖霊の中で早く「彼岸」に渡って仏になってもらいたいと願う供養のようである。人の煩悩のしがらみから脱却し本当の自分を見つけたいと思う願望の現われとも言えそうである。僧が仏の教えを説いて回参った時期が春分の頃で春の種蒔き、秋分では秋の刈り入れの季節だった。昭和23年には国民の祝日となった。春分では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、秋分では「祖先をうやまいなくなった人々をしのぶ」日とされている。
 身延町は集落単位で共同墓地が集落の上方にあるので、この時期始めに墓地道の補修や道草刈りをする。さて、彼岸が近づくと「中日ぼた餅明け団子」といい材料の調達をする。春分は「ぼた餅」で秋分は「おはぎ」と材料が一緒のようで、作って神棚や仏壇、お墓にお供えをする。お墓参りをする時、共同墓地にある無縁仏や戦歿者も必ず参るのである。
ぼた餅は、殆どが小豆の餡で作るがきな粉やすり胡麻を付けることもある。ぼた餅もおはぎももち米と精白米を混ぜる場合と炊き上がった飯を全部すりこ木でつく場合と半分だけつくのと名称が異なる場合もある。この時期に合わせて「彼岸法要」といい祖先供養を行なう家が多い。「彼岸法要」の一般的な膳は、野菜の煮物で特に金平牛蒡やうずらの煮豆、大根とさつま揚げの煮物、精進天ぷら、鯖の煮魚、すまし汁、蕎麦、甘酒などであった。直会の席には、酒が必ず出現する。帰りの手土産には、大引が毛団やタオルケットなどの寝具類か食器など、それに砂糖、まんじゅう、茶、酒などである。

その1 ぼた餅

彼岸の中日には「ぼた餅」を神棚、仏壇、お墓にお供えをする。豆餡ときな粉の2種類を作る。「ぼた餅」の餡は、小豆つぶ餡、さらし餡などで中身の餅もよくついたものからあまりつかないものなど、大きさや形態も地域や家庭によって異なっている。
臼でよくついたものは「つけこ」と呼び「ぼた餅」同様に餡やきな粉をつけて仕上げる。

材料
もち米 3カップ  ・餡(砂糖入り) 200g  ・きな粉 30g  ・砂糖 大さじ1 ・食塩  少々

器具
ごんばち  ・すりこ木

作り方
1) もち米は前日にといで浸っておく。
2) 炊飯器に1)を入れ炊く。きな粉はフライパンに入れサッと火を通し砂糖と塩を加えて混ぜる。(焦がさないように注意する)
3) ごんばちに2)を入れ熱い内にすりこ木で餡のようによくつく。
4) 両手を水でぬらし3)の餅を餡の方は30g、きな粉の方は40gに丸く作る。
5) 4)に餡ときな粉をまんべんなくつけて器に盛る。

メモ
小豆餡もすりこ木でつくと「ぼた餅」にくっつきやすい。小豆は水分を少なく固めに煮上げる。
餡は、好みでこし餡でも良い。
「ぼた餅」にはえんどう餡、白餡、黒胡麻のすりおろし、青海苔などをつけると風味がよい。変わったところでは餡をつけずに大根卸しと鰹節、醤油で頂く。

その2 彼岸の団子

 彼岸中の行事のことわざには「中日ぼた餅あけ団子」が言われている。彼岸明けの日に「彼岸の団子」を作り神棚や仏壇にお供えする。彼岸の団子」は、上新粉を練って小豆餡を入れて丸く作るのがコツで十五夜の月見団子より一回り大きくして蒸す。

材料
・上新粉 400g ・餡(砂糖入り) 100g

作り方
1) ごんばちに上新粉を入れぬるま湯を約200cc加え両手でよくこねる。
2) 1)を10個に分けて餡も10個に丸くしておく。
3) 2)を両手で円型にし餡を中央にのせ丸くなるように包む。
4) 蒸し器から蒸気が出てよく沸騰したら敷きのうを敷き3)を並べ強火で15分蒸す。

メモ

「彼岸の団子」は上新粉が一般的ではあるが、もろこし粉、小麦粉などで団子を作る場合もある。

上新粉の中に白玉粉を入れると少々柔らかめにできる。

桜の花見

桜の品種は多く約300種以上もある。「桜の花見」は日本を代表とする行事で、江戸時代の名物の一つでもあった。山梨県には大小の「桜の名所」が数百カ所あると言われている。桜の大木は学校や神社、寺、駅など公共場所に多く植樹されている。全国的に峡南地方の「桜の花見」は、大法師公園と身延山が知られている。
  この大法師公園の「桜の花見」は、昭和54年頃からで、現在は全山2000本からの桜が咲き日本の「さくら名所百選」に選ばれ、数十年前から県内外に知られるようになった。写真のように平成16年4月1日から桜祭が開催され晴天の4月3日も盛大な花見が催され老若男女で賑っていた。
 「桜の花見」の食は、おでん、寿司、サンドイッチ、串団子、桜餅、酒やビール、つまみなどが出現していた。時代経過の中で食事内容の変遷が大きく表れていることを感じた。

端午の節供

中国では、古代より「端午(たんご)の節供」は野に出て薬草を摘み、草を用いて野遊びをし船競渡を行った。蓬(よもぎ)で人形や虎を作って門にかけ、菖蒲を浸した酒を飲んだという。総て穢れ(けがれ)を祓い災厄を救うための行事で、中国には紀元前からこの時期にまつわるいわれが多く残されている。
  我が国では、5月を「菖蒲節句」、「田植月」、「早苗月」とも呼び、稲の若苗を植える月である。さて、5月5日は「端午節」で、他の節句同様に神を迎える祓いの日となり女性が仕事を休むハレの日で休養日となった。菖蒲を屋根にかけ粽(ちまき)を摂り蓬人形を作る中国伝来の風習に加え、江戸時代になると男子の健康と出世を祈り鯉幟を立て「端午節」は、男子を中心とする祝いの日に変化した。桃の節句も「端午節」もその起源は、中国生まれである。
  歌に登場する「粽食べ食べ母さんが」は身延町では殆どなく柏餅が主である。柏餅は上新粉を湯で練って餡を入れ柏の葉に包んで蒸す。
  庭に武者幟を立て風になびいて勢いがいい。それもそのはず鯉は川下から滝を登り、川上にやって来る程に元気がよいので、なぞって男の子の強く健康な成長を願う行事である。身延町では、男子の初子が誕生すると母方の実家で両家の紋章入りの武者幟を贈り、親戚からは武者人形や天神雛も送った。初節句を迎えた家では、贈り主を招き祝宴を開いて男児の出生を祝い無事な成長を祈ったのである。鯉幟が贈られるようになったのは、昭和30年頃からで武者幟が主流を占めていたようである。戸口に菖蒲を飾り、菖蒲湯に入るなどこれは災(わざわ)いや悪魔を祓って人災を防ぐと信じられてもいた。
  現在は、家族形態や住環境も変化しアパート、マンション住まいが多くなり座敷に内幟を飾るようになってきている。寂しいことに「端午節」は年々薄れている。現在、5月5日は子供の日として国民の祝日となっている。
  「端午節」の祝いの膳には、赤飯、寿司、野菜の煮物、刺し身など、ここでもハレの日の食として必ず酒が登場する。帰りの手土産は、大引が鍋や食器の日用品と柏餅、砂糖、寿司などである。

七夕節句

7月7日は「七夕」(たなばた)である。子供の頃は笹竹に「七夕飾り」をした。早朝、里芋の葉の露を集め墨をすり短冊に願いを書いて、竹につるし親から「字が上手になるよ」と言われたりもした。

        たなばたさま      
                        林柳波  作詞    下総皖一  作曲

            1、笹の葉さらさら     2、五色の短冊

            軒ばにゆれる                私が書いた

            お星様きらきら            お星様きらきら

            金銀砂子                       空から見てる

「七夕」は、盆行事の一環として祖先の霊を奉る前の禊(みそぎ)の行事と言われている。陰暦7月7日の夜、供え物として牽中・織女星を奉る行事でもあり8日に七夕送りをして穢(けが)れを神に託し持ち去ってもらう祓(はら)えでもあったようである。
 「七夕」の食にはそうめん、おざら、天ぷらが出現しているようである。

お盆の関係行事

その1  7月15日は中元

中元の起源は「盆礼」だと言われている。昔から盆礼にはそう麺、小麦粉の他に鯖、鰤などを送ることが多かった。
 盆暮とは、1年を半期ずつに分けた前期の終わりが「盆」であり、後期の終わりが「暮」に当り盆とは「中元」を暮とは「歳末」を意味するようになり盆には「お中元」、暮れには「お歳暮」として、お世話になった人々に日頃の無音を謝しつつ感謝の意を現わすようになった。山梨では、この時期に峡東地方がお盆である。

その2   お盆

お盆は、「盂蘭盆(うらぼん)」と呼ばれ峡南地方では、月遅れの8月13日から16日である。13日は門先で迎え火や墓参りをしたりもする。線香をたいて祖先の霊をお迎えするのである。
  盆飾りは、床の間にしつらえ仏壇から位牌(いはい)や写真、仏具を出して並べ正面には昔からの先祖代々の掛軸を吊るして飾る。机の上に敷布をかけ切り立ての茅をのせる。茄子馬には精霊が馬にまたがって帰ってくると言われ、作り立ての生麺をのせ、切ったばかりの茅を一面にひろげる。その上に盆飾りの供え物を飾る。季節のすいか、ぶどう、ももなどの果物と人参、南瓜、もろこしなどの野菜をお盆に供える。お盆の食の筆頭は、「あべ川餅」で餅をつき四角に切ってきな粉と黒蜜をかけまずは、神棚やお盆に供える。新盆の家では提灯をともし13日から親戚や近所の方々がお仁義回りにやって来る。
  お盆の食は、おざらやそうめん、太巻き寿司、精進天ぷら、うずらの煮豆、さやいんげんの胡麻和え、豆腐の白和え、さしみこんにゃく、茄子や胡瓜、かぶのぬか漬けなど季節の野菜類が出現している。

その3   なぎんでぇ

お盆行事の一環として身延町内の集落単位では伝統行事の「なぎんでぇ」を盛んに行っている。
  お盆の迎え火や送り火に結び付けて8月13日から16日の夜に栃代川、常葉川、三沢川などで開催する。集落の子供クラブが主となり、開かれる日の午後から大人も手伝って「なぎんでぇ」作りをする。材料は子供が各家から麦藁集めをし竹と縄それに上の「チョコ(杯形)」の中に花火を沢山詰め込む。現在麦蕎がなかなかないので前もって小麦栽培をする家に前年からお願いする。この日ばかりは、上級生が下級生に「投げ松明」の火玉の作りを教え、微笑ましい光景である。竹の長さ約10m、8m、5mと2基か3基を作る。小さい子供達は、低い約5mに火のついた「投げ松明」をぐるぐる回して放射状の杯形に挑戦する。お盆で故郷に帰省している方は、火玉がなかなか中に入らないので、見ていてはがゆくなり、なんと飛び入りで参加するのである。なんとも微笑ましい光景である。
  「チョコ」に命中させた子供の話題は、その後数日間にわたり賑わしているのである。
 「なぎんでぇ」の日の夕食は、おざらやそうめんなどの麺が多い。子供達は時間になるのが待ちきれず早くサッと食して「なぎんでぇ」にわれこそと急ぐためである。

小豆ご飯

7月7日は「七夕祭り」である。ここ勝沼町深沢の三枝栄富様宅では、6日から「七夕祭り」の準備を行う。七夕飾りには、三枝家で採れた新鮮な野菜や果物を御供えする。竹ざお、織り姫や彦星用の和紙を用意しお飾りを作り、短冊に願い事を書き吊るす。それに何よりも7日の朝は、決まって「小豆ご飯」を七夕様にお供えをし一家で供食をする。行事と食がしっかりと密接している。
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日には、織り姫や彦星は「御留守番」として和紙に包み大事に保管する。「御留守番」は昭和初期から残され、年中行事をしっかりと守り継承している。

材料
精白米 3カップ ・小豆 70g ・食塩 小さじ2/3

作り方
1) 小豆は洗い約3時間浸す。
2) 鍋に1)を入れ30分煮る。(煮ながら液汁を空気にさらすと奇麗な色になる)
3) 炊飯器に洗米した精白米と2)を混ぜ食塩を入れ普通に炊く。
4) 茶碗に「小豆ご飯」をよそる。

土用の丑の日(鰻の蒲焼)

平成18723日,平成19年7月30日,平成20年7月24日は「土用の丑の日」と言って酷暑の中、「鰻の蒲焼」を夏バテ防止や食欲増進などの目的のために家族揃って食す。暦の上で土用という時期は、春から冬の四季にそれぞれ18日間あるという。夏の土用は暑く身体が衰弱するので、回復を図るため特別の日として「土用の丑の日」は位置づけられてきた。
 民俗学では、夏の土用、立秋前の18日間の内にあり「丑の日」で年によって二度の場合もある。この日は、特に重んじられ陰陽五行説の相生・相剋の関係からである。
 土用に鰻が定着したのは江戸時代のいつ頃か、文献によると、江戸後期には店頭に生けすを設備し鰻を背開きして白焼きし、蒸しタレをつけ又焼く方法をとったらしい。複雑な作業がとろりとした深みのある味を醸している。鰻屋が前者の平賀源内(17281799年)に「鰻を売り込む方法は何か」と尋ねると「土用の丑の日がよい」と教えられた末に定着したと伝えられ源内の出身の香川県讃岐地方ではその宣伝効果を多いに期待しているという。「土用の丑の日」は現在、全国的な食行事になってきた。
  身延町常葉地区は一年中で、最も暑い時期であり気力や体力を保持するため「丑の日」の「う」の字が付く鰻は勿論、馬肉、うり、梅、うどん、うずら煮豆などの食品を食べると良いとされ好んで摂取している。

十五夜

平成16928日(火)中秋の名月、十五夜お月さんは姿を見せなかった。一年の内に満月は、12回巡り太陽暦922日頃の満月を「十五夜」と呼んでいる。ここのところ秋雨前線が停滞し晴天は少ない。雨に降り込められ姿を見せない名月には、「雨月」と呼びその薄明かりの神秘的風情を味わった。さて、十五夜は縁側に団子15個とすすきが中心でわきには、その時期の収穫された栗、さつま芋、落花生、甘柿、人参などの野菜、果物、芋類が陳列され季節感を最も現わした行事である。これは、八朔(旧暦の81日)を境に夏が終わり秋に入って最初の満月ということと1年の内で最も空気が澄む中秋で月の光が冴える神様(作神さま)を迎えて、秋の収穫祈願をする年中行事であったという。昭和40年頃まで峡南地方にあった話として、飾った団子や野菜、果物他は、家族が月に祈願し終える頃、近所の子供達に持ち去られても良いとしていた。縁側は、外につながり好都合であった。家の人に見つからないよう子供らは、十五夜に飾られた品々を楽しみに持ち帰った。数日間は子供の間でその話題が持ちっきりだったという。十五夜の晩だけは、その行為が公然と認められた一種の娯楽のようであった。平成161026日は(旧暦の913日)「十三夜」と呼ばれ十五夜と同様のような行事がおこなわれ、当日の団子は、13個とすすきと飾り物を用意する。「片身月をしてはならない」といわれ十三夜をとり行うように守られている。(写真右)

冬至

 冬至は二十四節気の一つで、一年中で最も昼の時間が短い日であり、12月22日頃である。掃除や正月支度で一年の中で最も忙しく、一段と寒さが厳しくなってくる季節である。
 
「最も弱い太陽の日」とも言われ昼の長さと斜めからさす太陽の光の流れも非常に少ない。この日をもって後は、次第に昼間が長くなり光が増す。これを尊いものの再生もしくは、復活を考えた信抑が古くからあった。農耕生活の人々にとり太陽の光と熱は、穀物の成長になくてはならないし、人間の活動にも明るく暖かい春の太陽への憬れは強烈なものである。そこで「冬至」を新しい太陽、恵みの太陽の誕生日として、時を測る基点に据えた暦、冬至正月の暦が中国の周代につくられた。現在は、冬至を休業日としないまでも幾つかの習慣を見ることができる。以下の通り4つの習わしが伝承されている。 

1) 小豆粥を炊く。
 冬至の日、「共工」という凶暴な水神の息子が死んで、疫鬼となり人々に害を及ぼしたという言い伝えがある。疫鬼は、赤い小豆を恐れるのでこの日は、「小豆粥」を摂り病気に罹らないようにと全国的な習わしである。
2) 南瓜を食べる。
 「冬至南瓜」と呼ばれ、冬になると野菜が少なくなるので長持ちのする南瓜を摂取して、中風予防の呪いと信じられてきた。これは黄色を魔除け災除けとする信仰からきていて、冬至まで大切に南瓜を保存しておき食べる。これも全国的に見られる。
3) こんにゃくを食べる。
 こんにゃくは「砂払い」と言い身体にたまった砂や青物を吸収させ排泄する食品として、僧侶が好んで食べ、一年間たまった煩悩の砂を流すという俗信とも言われている。
4) 柚子湯に入る。
 柚子湯は、風邪を払い、香りを楽しみひびやあかぎれを癒し風邪の予防に効果があるとも伝えられている。「桃栗三年、柿八年、柚子は九年でなりさがる」と言われ、実がなるまでに長い年月がかかり風雪に耐えぬいて成功するものの一つとして、冬至には柚子がつきものである。柚子湯も全国的な風習である。

かっちきご飯(炊き込みご飯)

1月14日の夕食は決まって「かっちきご飯」だった。その日の夕方は「どんどん焼き」などの小正月の行事が催される。大正・昭和・平成時代の流れの中で、農業ほどはっきりとその変化がわかる産業はないと思う。さて、かつての時代は化学肥料がなく、夏から秋にかけ野山で沢山の草を刈り束ね「にょう」(写真左)にしておき、田の回りで、にょうを腐らせ春になったら「かっちき」として、水田にそれらを押し切り(草を切る道具)を使い沢山入れ「今年も沢山の米が収穫されますように」と祈りを込めて作業した。それになぞられ、干し椎茸や人参などの家庭にある食材を沢山取り合わせ「かっちきご飯」を料理し、五穀豊穣を祈って神棚や仏壇にお供えしてから家族団らんで供す。

材料
精白米3カップ ・牛蒡100 ・人参70