●通過儀礼の料理
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結納 結婚式
宮参り お食い初め
初節句祝い 大豆飯
七五三の祝い 成人
厄年の祝い 米寿の祝い
葬式 七回忌
五十日祭(忘明け祭) 結婚式後の挨拶廻り・村廻り
たち餅

結納

 結納は、結婚の約束を言い「酒入れ」が滞りなく終了後、両人両家の婚約が成立し、その当日に贈物を取り交わす儀礼である。「大安吉日」が最も多く、都合で友引か先勝を吉日とし仏滅の日は絶対に避ける。昼間行うのが通例である。当日は婿側から仲人、親と婿が絞付き羽織り袴の正装で、結納の品を持参し、元世話人の案内で嫁の家に行く。迎える人も正装で嫁側は、数日前から色々な準備を行う。床の間に掛軸(天照皇大神や高砂などの縁起物)を飾り島台(州浜台の上に松竹梅や尉や姥、鶴や亀等を飾った婚礼用の飾り物)等を供える。全員が揃うとまずお茶がすすめられる。「落ち着きのお茶」と言われる。
 結納品を載せた三方、または膳を挟んで対座する。仲人は、一礼の後、「本日はお日柄もよろしくおめでとうございます。不束者ではございますが本日○家より結納の品をお預かりして参りました。幾久しくお納め願います。」ついで嫁方の父親は「本日はまことにご苦労様でございます。幾久しくお受け致します。」と述べ、結納品を受け取り、床の間に納める。ここで婿と嫁の固めの盃(三三九度)が交わされ受書を添えたり家族書の交換と嫁側からの贈物が出される。近年は婚約指輪の交換がこの場でなされる。儀式後は、祝盃をあげ祝宴に入り、嫁はもてなす側として仲人らの接待をする。結納の膳は、赤飯、吸い物、皿盛り(太巻き寿司、金平)、坪(甘い煮豆)、皿(白和え)、平椀(油揚げの煮付け)、お平(里芋、大根、人参、椎茸、昆布、竹輪他)、酢の物(大根と人参)などである。結納の品々には、目録(品名と数量)、長熨斗(あわびののし)、金包(ご帯料)、末廣(白無地の扇子)、友志良賀(麻糸)、子生婦(昆布)、寿留女(保存食品)、勝男武士(鰹節)、樽料(ご酒料)と一つ一つに意味が込められている。この日をもって嫁は、婚約先への行事に参加できる。大正、昭和時代から5
0年頃までは、結納や結婚式の祝いは家で取り行なわれ、その日は親戚や近所の多勢の方々が「飲めや、歌えや、踊れや」の相当の賑わいであった。
 結納は、現在も「ユイレ・イイレ」などと呼ぶところもあり、申し込みを受理した意味の語である。一方には、「ゆいのもの」すなわち両家が新しい姻戚関係を結ぶために共同の飲食をし酒肴を意味する語である。
 
家へのお土産として、帰りの引き出物は、大引きが食器や置き物などであり、食品・食物は、鯛の塩焼き、紅白かまぼこ、鰹節、砂糖、赤飯、巻き寿司、羊羹などがある。結納の儀式は、時代が経つにつれ形式内容は変化してきたが脈々と伝承されている。


結婚式

 「結婚」は成人した男性と女性が性的にも結ばれて、夫婦関係に入り社会が男女両性関係の成立を許容し公然と祝福され種族の保存本能として実現を果たすことと言える。
 人の一生の通過儀礼の中で、意義ある重要な儀式をも治める。そこには、家やクミ社会の形成存続の基礎を成し新しい親戚関係を作る。社会習慣や信仰形態によっても差異が認められ、配偶者相互の権利義務や当事者間の子供が社会的地位を付与し社会発展のために寄与することが期待されている。
昭和
40年頃までは、結納や結婚式の祝いは家で執り行われていた。その日は、親戚や近所の大勢の方々を招いて「飲めや、歌えや、踊れや」の相当の賑いであったようである。今はその状況 は懐かしい思い出となっている。
 結婚を社会や地域に認めてもらえるよう新郎新婦の紹介も含めて「どんど焼き」や「獅子舞」などの年中行事に表現されている。近年の結婚式は実に多様化している。
 上段左は、懐かしの昭和40年代の結婚式の写真である。

結婚式後の挨拶廻り・村廻り

 昭和40年頃まで結婚式の翌日、花嫁は晴れ着の小袖を着て、仲人夫人(または親分夫人)の案内のもと菩提寺や氏神参りを済ませ村役の区長や役員を始め集落の家々を表書ののしに二人の氏名を書いた手拭いなどを持って挨拶廻りをした。
 現代も挨拶廻りとして、結婚式後の日曜日に嫁家の姑と新郎と親婦連れ立ち近所の挨拶廻りが行われて、親しい家では茶菓子でもてなしている。

宮参り

 「お宮参り」の通過儀礼は身延町常葉において、出生後の男児30日、女児は31日に集落内の神社にお参りをする。
 当日、母親か祖母が赤ちゃんをだっこして上に引っ掛け着物をはおり、その上に注連縄におしんめいを付け神社に出かける。精白米を和紙に包み「おはんねぇり」と呼び、それを持って氏神様にお参りをするのである。祖母や付き人が「おはんねぇり」を神社に奉納する。「生児の産の忌があける」とも言われ、この時は産ぶくなので神社の鳥居はくぐらず、手前の決まった大樹に注連縄を掛け、赤ん坊の無事な成長を祈願して帰る。
 宮参り後の日曜日に「ぼこみ」が開催される。前もって招待状を親戚と隣近所などに発信して当日を迎える。ぼこみの膳には赤飯、寿司、煮物、刺身、酒が振舞われ、帰りの家への引物は、赤飯、餅菓子と大引には家庭用品が出現する。宮参りの日数は、地区によりまちまちのようで、いずれにしても母親の忌があけてないので、祖母や近所の女性が赤ちゃんを抱き生児を氏子として認めてもらう神社を訪れる最初の機会である。
 宮参りの際、鳥居の所で神様に認めてもらえるように、泣き声が大きい方がよいとか、直接家に帰らず組内の親戚に挨拶に寄るなど数々の言い伝えがある。

お食い初め

通過儀礼の一つ、乳児は生後100日目に「お食い初め」として祝儀を催す。「めで鯛」として、おかしら付きの鯛の塩焼き、ご飯と味噌汁、柔らかい副菜などを整える。生後100日目では母乳が主で、まだとても固形物を食べる事はできないがお父さんやお祖父さん、お祖母さんに抱かれた我子その乳児は母親によって白いご飯1粒を口に含ませる。「家内安全、健康ですくすく大きくなるように」と祈りながら家族で執り行う。お呪いのようにも思えてくる。
  瀬戸物屋さんに「お食い初め」には準備するようセットで食器が陳列してある。このように子供の健やかな成長を願って家族で祝い、一つの人生儀礼は精神文化をかきたたせ知的食生活の一端が見えてくる。


初節句祝い

 生まれた子が初めて迎える「初節句祝い」は、男児55日、女児33日の節句を女児に限り一ヶ月遅れの43日に執り行う地域が多い。
 「セック」の「セツ」とは、年間の特別な行事が行われる日であり、仕事を休み、神々にいろいろな食品を供える。節句は正月7日(人日)、33日(上巳)、55日(端午)、77日(七夕)、99日(重陽)の5つである。この外にも、ムキ節句、生姜節句、栗節句、八日節句、八朔節句などがあり『歳時記習俗語彙』の中には、50近い節句の名が載せられている。
 33日、暦の上では女児の節句の雛祭りである。「お花をあげましょぼんぼりに」と歌われ白酒、菱餅、あられ等を飾る。上巳の節句は、別名「桃の節句」として親しまれている。
 男児の端午節句は、近年、鯉のぼりは少なく、五月幟と言えば武者絵ののぼりが主であった。「鯉のぼりよくぞ男に生まれけり」という句も生まれた。「屋根より高い鯉のぼり」など端午の節句に合わせて歌われ、柏餅を作る。
 男児、女児とも「初節句祝い」には、親戚を招いて家で祝宴を催した。一ヶ月前は親戚等に招待状を配信する。当日の食品・食物は、餅、赤飯、寿司、煮物、揚げ物、刺身、麺、酒などが振舞われる。
 
次の年からは「人形は年一度は出さぬと泣く」と言われ、節句には雛やのぼりなどを飾って上巳節は桃の花、端午節句には菖蒲を供える。

たち餅

 通過儀礼の一つに「たち餅」がある。出産後、1年以内の乳児が誕生前に両足でしっかり2歩、3歩と足を運ぶと家庭では、喜んで餅を搗く。厚めの餅は紅白で、はがき2枚の大きさの横が約20cm、縦が約15cmの餅を搗いて切る。2枚を神仏に供え、両親の実家や親戚、近所に和紙に包んで配る。
 ところ変わって、富士宮市宮原では、「たち餅」と言って健康で丈夫な子供に育つよう願いを込めて、乳児の背中に直径約20pの丸餅に「祝」と食紅で、書き記し紐でしばりしょわせるそうである。

  

大豆飯(疱瘡飯)  

 江戸後期、明治、大正、昭和20年代は、各地で天然痘やはしかなどの悪性の伝染病が長い年月、流行を繰り返し乳幼児を悩まし続けてきた。その歴史は古くエジプトのミイラに天然痘らしい痕を見ることができるという。天然痘は「疱瘡・痘瘡」と呼ばれ書物の『続日本紀』(735年)に「碗豆瘡」(れんずかさ)として出現している。原因は子供の患者が空気感染と水泡液やかさぶたの接触により「天然痘ウイルス」が感染して、発病し一度罹ると免疫ができ二度と罹ることはない。疱瘡は発症から約2週間と長く感染、発病、終結と症状がはっきりしているのも特徴である。「七歳までは神のうち」といい疱瘡、はしか、大腸カタルなどで死亡した子供が多くやっと七歳を迎え社会の一員のとみなされた。全国的には、「疱瘡成就の祝いの食」として「赤飯」、「団子」、「まんじゅう」が多い。山梨でも昭和20年代まで、各集落ごとに神社、寺、地蔵尊などを守護神としてお参りをした。身延町杉山の赤池萬志氏のお宅に残る話として、江戸後期頃、可愛い我が子が病に罹り一家の働き盛りの大黒柱(父親)が子供の命を助けるために大升一升に煎ったかやのみ、胡桃などを持ち自ら地下のお墓に行き「身代わり」となった悲しい話も伝えられている。次は、ここ富士河口湖町西湖の「薬明神社」を訪ねて、東側に奉られた「疱瘡神」をお参りした。その時代、疱瘡に罹ると富士吉田や河口周辺から母親が子供を背中に背負ってお参りに来たという。勝山や鳴沢では、疱瘡に罹ると「さんだあら」と呼ばれる藁で直径40cmの円型を作り、上部に「おしめ」と呼ばれる細竹3本に赤色の神紙を刺す。それを屋根の中央にのせて「疱瘡が軽く過みますように」と一心にお願し同時に近所には「大豆飯」を茶碗一杯に盛り配った。忘れられた懐かしい話を西湖の元助産婦の三浦つな枝氏、同町勝山の堀内益子氏に貴重な話題提供をして頂いた。ここに写真で紹介した。歴史的に見ると病原微生物の発見、伝染病予防、種痘法の発明、ワクチンの開発と利用、特効薬の開発などにより伝染病に対する大きな成果を得た。疱瘡は、1980年にWHOより撲滅宣言されたのである。

七五三の祝い

 11月15日は「七五三祝い」で、子供の健康と成長を祝う行事である。子供が少なくなってきたとはいえ現在も盛んに行われている。七五三の通過儀礼は、元々徳川幕府三代将軍家光の四男である徳松(後の五代将軍綱吉)の身体が虚弱だったため「五歳の祝い」を慶安3年(1650年)11月15日に執り行ったのが初めと言われている。「七五三の祝い」は、めでたいから祝うのではなく、祝うことによってめでたくすると言う説がある。「七五三祝い」は、子供の健やかな成長を祈り、節々の厄災に対する抵抗力をつける「子供の歳祝い」でもある。現在は、土・日曜の大安・友引の吉日が当てられ、正装した子供と親や祖父母がつき、神社で御払いを行い、親戚と供食する。
 
千歳飴は、「七五三の祝い」にはつきもので、参詣の帰りに買い求められる。松竹梅や鶴亀をあしらった吉祥文様の袋の棒飴を持ち、自ずから華やいだ雰囲気を漂わせているのである。
 
この千歳飴は宝永の頃(1705−1710)、江戸浅草で豊臣残党の一人、平野陣九郎重政が甚右衛門と改名して、飴屋になって始めたものと伝えられている。
 
「七五三の祝い」の食には、赤飯、寿司、酒など供される。

成人

 通過儀礼の中で、重要視している「成人」は成人式に象徴される。歴史を紐解くと明治941日、太政官布告第41号で「自今満20年を以って丁年(成人)と相定め候条この旨布告侯事」とされた。
  昭和時代の戦後は、全国統一に115日が「成人式」として祝日であった。
  平成17年度「成人式」は1月8日から10日に集中し、昨年の山梨県の市町村合併により一段と成人式が賑やかに執り行われ式場内では、男性はスーツが多いが羽織袴姿も若干見られた。女性は振袖に着飾り和服姿が殆どである。「成人式」には、同級生が学校卒業以来、一同に集合するので式典は地域の一体感を示した地元の方によるコーラス、講和、講演などの催しが用意され開催された。 当日の食品・食物は赤飯を筆頭に、酒、寿司、刺し身などが供されていた。
 平成20年の県内の新成人は10,689人で昨年より126人増加となった。 


厄年の祝い

山梨県で有名な「厄払い」の祭事は、毎年2月13日正午から14日正午にかけて甲府市湯村の塩沢寺(えんたくじ)において開催される。厄地蔵さんとして「厄除地蔵尊祭り」を開催している。塩沢寺のお地蔵さんは普段は耳が聞こえないがこの時だけは耳がよく聞こえ願い事を聞いてもらえると言う。厄払いと願かけ中には、ご利益にあらかろうと近隣界隈から訪れる。
  人生のうち、「厄年だから厄払い」と言って人々は特に「男性42歳、女性32歳」の大厄としておそれられ「厄払い」の通過儀礼を行っている。
 律儀な方は「前厄、本厄、後厄」とある知人は、身延山節分会の2月3日に3年連続して、「厄払い」を行ったのである。境内には立派に赤白の横断幕をしつらえ有名力士も招待し盛大に「節分会」を催している。  身延町杉山地区では、男性42歳の厄年になると、厄年の祝いとして集落の公民館に共同で使う炊事用具(まな板、鍋、ポット他)と酒を厄難除け記念として贈っている。人生50年の時代はまぼろしの時代、今や「日本は男女共に世界の中で有数の長寿国」日本人の平均寿命は男性約78歳、女性約85歳のかんたる超高齢化社会において社会一般に簡単に済ませているようでもある。


米寿の祝い

生涯の成長衰退過程の中で、必ず通過する儀礼が人生儀礼や通過儀礼と呼ばれる。その食の筆頭に上げられるのが赤飯である。今回取り上げた「米寿の祝い」は88歳時に祝い、字合わせのように米と日本人の深い関係からなっていて、八十八と書き「よねの祝い」とも言われる。主役は、赤の座布団に座り、赤の帽子、赤のおチャンコをまとい親戚知人近所の人たちを招いて祝宴を執り行う。「米寿の祝い」の食品食物は餅、鯛、寿司、煮物、季節の天ぷら、酒などである。
今回は、市川三郷町帯名の小林初美、巌、節子氏に貴重な資料提供を頂いた。餅をついて紅で「壽」と書いて親戚に配るしきたりもある。また、本人の作った布袋を配ったりするところもある。

葬式

 古くから死者の出た家に、集落・地域の出来事として一致団結の体制で強力し葬式を円滑に執り行なう。このように、人の死を重視する観念は特別に強かった。「遠くの親戚より近くの他人」と言われ、親族親類以上に近隣近縁を重視し共同体の努めとして援助していた。
 身延町常葉では一人出、二人出など不祝儀の場合の客呼びの例にならい喪家と近隣の人々により葬式の協力体制が決まっている。集落の事情により異なるが親類中の長老格、組内の長老、組長、区長などが葬儀委員長を努めている。特別職などの公葬の場合は、所属長が当たり戦死者の公葬では村長や町長が担当していたようである。
 葬式の食品・食物は「枕飯」に始まる。茶碗に飯を高盛りし箸を真っ直ぐに立て卒塔婆と同じように考えられている。高盛りする枕飯は、別釜で炊く家もあったようで、今は家族と同じ炊飯器で炊かれているようである。別釜で炊くことは「ハレの食物」として「仏さん」に供える意味があった。葬式当日には、死者に最も近い女性が「枕飯」を墓場まで持ってお供えする。次に「枕団子」は、直径3cmの上新粉での団子を2個ずつサランラップで包み重箱に高く盛り用意する。
 現在は、葬式を我が家でする事が年々減り寺院、葬儀場などで執り行なう家が多くなってきた。近年は、葬式の後半は「初7日」(お斎)を執り行なっている。その膳には決まって、酒、ご飯、蕎麦、鯖の醤油煮、牛蒡の金平、野菜の天ぷら、煮豆、油揚げの煮付けなどであるが、元は精進料理が多かったようである。お斎の正客は導師(僧侶)であるので、上座に席を用意し膳や酒などは、必ず僧侶から先におすすめする。「精進落とし」と呼び会葬者に酒食の接待をしている。
 帰り家への引き物の食品・食物は茶、海苔、砂糖、饅頭、蕎麦、団子、酒、鰹節、果物などである。当日は、お手伝いのお礼として、集落の女性には粉石鹸やタオルが用意される。

忌明け(四十九日)
 四十九日、七七日(なななのか)の中陰が明けた後は、家の神棚の紙を剥がしたり、神社に詣でて肉や香味野菜を食べても良いとされている。この日をもって普通の「ケ」の生活に戻っても良い。四十九日までは、神仏の祭壇は仏壇とは別に設け酒食を供え、朝夕に香華を絶やさず炊き立てのご飯を奉げ故人の霊を慰める。
 身延町常葉の「四十九日」の法要は、僧侶にお願いし前もって、日時を決め葬式でお世話になった集落の方や親戚に案内状を出し招く。当日は、読経、墓参り、食事(お斎)を共にして四十九日の「忌明け」とする。帰り家への引き物の食品・食物は饅頭、果物、酒、砂糖、蕎麦、白餅、寿司(乾ぴょうの細巻き)などで大引きは毛布、タオルや食器・器具等で表書きに「粗供養」、「志」とする。お葬式や忌明けなどの不祝儀の食品・食物は饅頭、蕎麦、酒など江戸時代後期から殆どあまり変化はない。

七回忌

 人生儀礼の仏教の不祝儀として初七日、四十九日、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回忌と続く。中でも七回忌は近親者のみで厳かに生前の関係者としめやかに開催される。その不祝儀の膳の筆頭は茶でもてなす。
 一連の祭壇の前に着座し僧侶を迎え開催される。合掌札拝を行い読経、焼香、お墓参りなどの式が終了すると故人の供養と参列者へのお礼として会食(お斎)のおときが始まる。料理内容は形式にとらわれず豪華にする必要もないが以前は、精進料理が一般的であったが失礼のない程度に進める。始めの言葉を述べ酒で「献杯」の発声し「いただきます」と会食が開始される。祭壇のお供物の饅頭、果物などは参列者全員に「おさがり」「おぶっく」として配る。参列者に対し「お返し」、引き物はお茶やタオルなどの実用品や故人の好んだ菓子などを用意する。
 近年は相手が自分の欲しい品物を選択できるカタログギフトが一般的になってきた。法事での引き物の表書は、「志」「粗供養」と表わし水引きは黒白を用い略式には印刷された掛紙でも良い。現在は地域、環境や家庭により多少変化してきている。 
 七回忌については、身延町西嶋青原院に貴重な資料提供を頂いた。

五十日祭(忘明け祭)

 神葬祭と言われる神道の葬場祭(告別式)は亡くなった日から五十日に近い日に「五十日祭」を執り行う。仏式では、四十九日の法事にあたる。神霊は家の守り神の考えから日本の伝統的信仰からすれば自然である。「手水の儀」、「玉串奉奠」(たまぐしほうてん)などを行う。献饌(けんせん)は祭壇を設え「海の物、山の物」と言って水、餅、酒、食塩、野菜と果物(季節の食材)、乾物のするめと昆布の供物を飾る。
 式終了後には仏式のお斎(とき)と同様、出席者が全員揃って会食でもてなす。尚、献辞(表書き)は「御神前、御玉串料、御榊料」と記す。
 家へのおみやげは、大引が毛布かバスタオルなどの家庭用品、それにまんじゅうや菓子が引き物とされる。五十日祭の翌日は神棚をはじめ飾り物や額等に貼ってある白紙を取り外し、日常の生活に戻る。この五十日祭までが吉祭でなく拍手の際は、「忍び手」と言って音を立てないで両手を打つ直前に止める。悲しみのため大きな音を出さず慎む心を表現したものである。五十日祭をもって爽やかな拍手は朝・夕の礼拝や折々の祭、年祭に浄められ吉とされ故人は御位(みくらい)の高い神になれると古来より信仰されてきた。
 後の祭は、一年祭、二年祭、三年祭、五年祭、十年祭、五十年祭と言って、神官により祭詞を奏上してもらい霊を慰め奉り家族のみ、又近親者で行っている。
 写真は左が神葬祭と右が五十日祭である。

 資料提供:山梨学院短期大学食物栄養科 准教授 依田萬代先生